朝生を見ました

あずまんのTwitter見て思い出したので見てみました。
うーーん。
まあこの番組は、いつも言論プロレスみたいな感じではあるけど今回は面白かったし考えさせられた。


福島や原発事故を語る時、知識人や専門家だけが注目されて、市民の活動は「反原発」というイデオロギー的なものと見なされてスルーされることが多かった。
まあマッチョな稼働・推進論VS福島悲観論という極端な議論が繰り返されてきたような気がする。
こういう議論は呆れる程堂々巡りをしていたわけで、
そんな答えのない議論を繰り返すごとに、人々は無意識に原発をタブー視するようになった。
答えのない問題なのに、発言すると逆の立場の人から否定される。批判される。
例えば、Twitter放射線量について楽観視する意見を言うと、すぐ批判リプが来るし、原発稼働のリスク性を指摘すると、すぐ否定リプが来る。(私のフォロワーの性質上かもしれないけども。。)
SNSでそんなレベルなので、一般市民はイデオロギーに浸食されていない限り、議論する気を無くすよね。


最後のほうにあずまんが言っていたことはまさしくそういうことで、
今の日本の「原発問題は専門家や知識人が話すべきで、市民が迂闊に触れてはいけない」という空気感は異常。
逆に考えるとまあ、そのようなことを繰り返して、今の日本がある。
社会問題や国家的問題もそういう空気で判断された。
原発もそのうちの一つに過ぎない、市民の興味は所詮「ワイドショー的」であると。
そう判断されてきたのかもしれない。
でも、原発問題は答えを出せない問題だった。
事故直後に報道された専門家の所見はことごとく外れ、知識人の意見も真っ二つに分かれた。
議論を尽くせど答えは出ず、細かな事故の報道が積み重なり、明かされない事故情報もあるまま時間だけが過ぎていく。
事故現場の状況もわからない。
しかも迂闊に意見を言えない。
そんな状態なのだから、市民が急速に専門家や知識人、マスコミ、ひいては学問に失望するのは当たり前だ。
自分で答えを探す権利がなく、かと言って代わりに答えを出す「べき」それらが答えを出せないのだから。


私は別に市民全員が頭がいいという性善説に立っている訳でもないが、
かといって性悪説でもない。
解決の難しい問題に際しては、市民が知識人や専門家にない視点を与えてくれる可能性に賭けてみてはどうか、と思うのだ。


話を戻すけど、朝生のあずまん発言以降は番組の公開反省会みたいになっててうけたwww
それと、今回の朝生で録画だとか何とか騒いでるみたいでびっくりした。