酔ったいきおいで書いた文章はなんとゆうか自分に酔ってるね

たまたま徘徊したらこんなの見つけた。

277 :TR-774:2013/08/11(日) 15:36:45.87 ID:???
観客目線だと83、選手目線だと03って感じかな、マッチングという意味だと
曲自体はどっちも好きです
【吊吊】 KRAFTWERK 41 【吊吊】


これ本当よくわかるんだよね。
ツールドフランス1983


ツールドフランス2003

1983の出だしは「ハァ、ハァ」という規則的な荒い呼吸音。
ちょっと湿っていて、セクシーさすら感じさせるその音が、重要なサウンドになっている。
人間が生きている限り生まれるその音が、サイクリングによって乱れる。
自転車が走るリズムの中展開される、生命活動の中の、わずかな「乱れ」。
その背徳感を味わわせるツール・ド・フランス
ツール・ド・フランス1983はそんな装置としての一面を私たちに提示している。
なぜ人はツール・ド・フランスに魅せられるのか。
それは、自転車に乱される人間の姿の美しさであり、
自らを乱す自転車という道具を作り出した人間の被虐性なのかもしれない。
それらはつまり、ツール・ド・フランスを通して人間の美を見出す観客の視点である。


対する2003は1983とは始まり方が違う。
1983の浅い呼吸音と比較すると、まるで深呼吸のような、長く、緩やかなメロディー。
その後、矢継ぎ早に繰り出される、自転車を漕ぐかのようなサウンド
断片的な歌詞の数々。
その断片的な言語情報と早急かつ綿密に繰り返される自転車サウンド、落ちていくかのような間奏。
自転車に滲む焦り。内面への潜航、あるいは外界の記号化。
そこには自分と自転車しかない。
自分(内面)と自転車以外は「言葉」の断片であり、ただの「名詞」であり、「記号」である。
行く先々に見える、あるいは見えたものは記号として通り過ぎていく。
自転車を漕ぐ。速く記号が通り過ぎてゆく。そうしてまた、世界は自分と自転車だけになる。
ツール・ド・フランスの本質は、自分と自転車、それらを際立たせるために自転車を速く漕いでゆく、この反復なのだ。
2003は、そのようなツール・ド・フランスの本質、自転車という道具と人間の欲求を上手く表現している。
欲求を満たすために、人はツール・ド・フランスに参加するし、自転車に乗る。
ツール・ド・フランス2003は自転車を通して人間欲求を満たそうとする選手やサイクリストの視点である。


1983が発売された当時、メンバー4人がサイクリングするPVが作られたし、ラルフ自身もサイクリングに凝っていた。
そのため、一見すると、サイクリスト視点の曲であると思いがちである。
しかし、1983当時は傍観者、観客にすぎなかったのは間違いない。
2003発売後、2009年にメンバーのフローリアンが脱退し、イギリスでライブが行われた。
その時、初めてサイクリストとツール・ド・フランス2003がコラボレーションした。
曲に合わせ、サイクリストらが自転車で走ったのだ。(ちなみにラルフ感極まって半泣きw)
つまり、曲の表現が現実化した。
観客は記号化した。会場は、音楽と、自分と、自転車だけになった。
その場の誰もが、自転車を追体験した。
目まぐるしく変わる景色。断片的な情報。自分と自転車。
1983ではこんな体験できないだろう。
呼吸音は自分の呼吸音ではなく、あくまで他人の呼吸音で、自分以外の人間を示唆している。
象徴としての人間と言ってもいいかもしれない。
そこには、自分と、自転車と、自転車に乗る他人しかない。
自分と自転車の関係が少し遠いのだ。
2009年に初めて、2003は2003としてのアイデンティティを確立したと言ってもいいかもしれない。